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2006年2月 1日 (水)

森田童子・夜想曲 『麗子像』

Photo 【森田童子】
http://www.geocities.jp/papillon4006/music/douji/douji_frametop.htm



■競馬サブカルチャー論・第12回:馬と『森田童子』

【ミルキーホースコム】

http://cms.blog.livedoor.com/cms/article/add?blog_id=429357

 この連載は有史以来常に人間とともに在った名馬たちの記録である。実在・架空を問わず全く無名の馬から有名の誉れ高き馬まで、歴史の決定的場面の中において何ものかの精神を体現し、数々の奇跡的所業を成し遂げてきた姿と、その原動力となった愛と真実を余すところなく文章化したものである。 

 ―馬は、常に人間の傍らに在る。

 その存在は、競馬の中核的な構成要素に留まらず、漫画・アニメ・小説・音楽―ありとあらゆる文化的事象にまで及ぶ。この連載は、サブカルチャーの諸場面において、決定的な役割を担ってきた有名無名の馬の姿を明らかにしていきたい。

- 森田童子『麗子像』 より-

 1993年1月、テレビ番組の改編にあわせて始まったTBS系列の金曜夜10時からの新番組「高校教師」の主題歌は、各方面に様々な反響を巻き起こした。

♪ 春の木漏れ日の中で きみのやさしさに
♪ 埋もれていた僕は 弱虫だったんだよネ

 悲しいまでに厭世的な歌詞と、恐ろしいほどに歌詞と融合した透きとおるような女性歌手の声は、その瞬間、テレビの前にいた視聴者たちの魂を震わせた。視聴者たちの多くは、その女性歌手…「森田童子」という名前を知らなかった。「高校教師」第1回の放映終了直後、TBSとその関連放送局には、「あの主題歌を歌っている歌手について教えてほしい」という質問の電話が殺到したという。

 *

 森田童子―彼女は、透明感にあふれる独特の声質、哀愁を誘う曲、そして何より文学の域へと昇華された歌詞を特徴として、1975年から1983年まで活動したシンガーソングライターである。森田童子の活動は、当時既に隆盛期を終えつつあったライブハウスでのコンサートを基軸としたものであり、同時代のシンガーソングライターたちが時流に乗ってテレビ等のマスコミ媒体に活動の舞台を移していく中、彼女はそれらに背を向け続け、やがて消えゆく時代に殉じようとするかのように引退して表舞台から姿を消したため、彼女の名前が全国区の知名度を得ることはなかった。それゆえに、彼女の歌と名前は、彼女の歌を直接知るごく限られたファンに深い印象と記憶を残すのみとなり、もはや「伝説」の域となりつつあったのである。

 森田童子が約9年間という限られた活動期間の中で書き上げた曲は、決して多いわけではない。彼女の9年間にわたる活動は、1975年にリリースされた「グッド・バイ」から1983年にリリースされた「狼少年」までの7枚のアルバムに集約されており、その中から重複して収録された曲、タイトルは違うものの、事実上アレンジにすぎない曲(「狼少年~ウルフ・ボーイ」は、「地平線」のアレンジバージョンと考えられる)を除くと、わずか54曲に過ぎない。そして、彼女の歌に共通するのは、そのほぼすべてにおいて徹頭徹尾貫かれた「森田童子の世界」であり、その世界の中にこそ、「森田童子」というシンガーソングライターの本質がある。

 森田童子の歌を何曲か聞いた場合に真っ先に気づくのが、「ぼく」「私」の一人称、「君」「あなた」等の二人称の、異常なまでの多さである。森田童子の54曲を検証してみると、歌詞の中に一人称である「ぼく」が登場するのが36曲もあり、「私」4曲、「俺」1曲を加えると、実に41曲に上る。次に、二人称を数えてみても、「君」23曲、「あなた」9曲、「お前」3曲の計35曲に上る。

 森田童子がデビューから引退まで一貫して歌い続けたのは、「ぼく」と「君」の世界である。そこに登場するのは「ぼく」自身だけか、あるいは「ぼく」と「君」だけという狭く閉ざされた世界だった。そのことを裏付けるように「ひとり」「ふたり」というフレーズも多用され、「ひとり」が17曲、「ふたり」が7曲で使われている。森田童子の世界は、代表作とされる「ぼくたちの失敗」がその典型であるように、そんな狭く閉ざされた世界に閉じこもった「ぼく」による、あくまでも個人的な「淋しさ」の表現であり続けた。

 特筆すべきことに、森田童子の世界における「ぼく」は、狭い世界の中で「淋しさ」を歌いながら(「淋しい」という歌詞は、活用を含めると25曲で見受けられる)、その淋しさを解消するための行動…自らの世界や自分自身の「淋しさ」を、狭い世界の外、つまり「ぼく」と「君」以外の世界に向けようとはしていない。「ぼく」の世界はあまりに完結しており、「ぼく」と「君」以外の第三者はまったく介在しない。従って、「ぼく」の姿を第三者の視点から客観化しようとする試みも存在しない―というより、最初から拒否している。森田童子は、徹底して狭い世界の淋しさの中に「ぼく」を純化し続ける「森田童子の世界」を貫くことによって、森田童子であり続けたのである。

 しかし、これほどに貫き通された森田童子の世界の中にも、わずかながら異質なものが混じっていることも事実である。6thアルバムの「夜想曲」に収録された 「麗子像」は、その数少ない「異物」のひとつである。

 *

 「麗子像」の主体は、「ぼく」ではない。第三者、あるいは神の視点から「麗子」を歌うのが「麗子像」である。

 このような視点からの歌は、森田童子の他の歌にはほとんど類を見ない。前記の54曲のうち、「ぼく」等の一人称が一切登場しないのは13曲あるが、その13曲ですら、たまたま「ぼく」が歌詞に出てこないだけで、歌詞自体は「ぼく」の視点であるものがほとんどである。明らかに「ぼく」ではない視点で歌われているものは五指にも満たない。「麗子像」は、その時点で既に異彩を放っている。

 また、森田童子の世界には、基本的に「名前」がない。「ぼく」は「ぼく」であり、それ以外に呼ばれるべき「名前」を持たない。「君」も「君」であり、それ以外に呼ばれるべき「名前」を持たない。それもそのはずである。そもそも「名前」とは、他者からその固体を区別するためのものである。「ぼく」と「君」の2人だけの世界では、「ぼく」と「君」以上の区別…すなわち「名前」は必要ないのである。ところが、「麗子像」では、登場人物に「麗子」という名前が与えられている。「麗子像」は、「ミドリちゃん」が登場する「セルロイドの少女」と並んで、森田童子の世界における数少ない例外として特筆することができる。

 このように、形式面でも森田童子の世界の中で際立った特徴を持つ「麗子像」だが、その特徴は、歌の内面に踏み込んだ場合により顕著なものとなる。

 *

 森田童子の世界の中で、いつも閉ざされた世界の中で淋しさと向き合って生きようとする「ぼく」は、現実逃避をしているようで、実は悲しいまでにリアルに現実と向き合っている。「ぼく」は、自分を受け入れてくれる世界が「ぼく」と「君」のほかには存在しないという悲しい現実を知っているからこそ、自分の世界を「ぼく」と「きみ」の間だけで完結させるしかない。そんな無力な自分への絶望が、森田童子の世界の源流となっている。森田童子の世界とは、実は徹底的にリアルな現実そのものなのである。

 ところが、「麗子像」に歌われる「麗子」には、そうしたリアルな現実感がまったく感じられない。前半部に歌われる、まだ見ぬ「あなた」に恋をして震えたり、裸足のまま庭でショパンのワルツを踊ったり…という心情・行動は、森田童子が好んで歌ってきた「ぼく」の閉鎖性・現実性とは相反している。前半部の奇行とも言いうる行動から推測される、非常に浮世離れしていて、よくも悪くも行動的な「麗子」像には、現実社会を知らない乙女ゆえの、根拠のない未来への希望が透けて見えてくる。そこに、「ぼく」が共通して歌う絶望はないように見える。

 だが、そんな「麗子像」は、後半部の歌詞によって一気に謎めいたものへと変わってゆく。まず、麗子像の3番には、述語がない。あまりに散文的なその歌詞から想像される麗子の状況は、もはや常識の範疇で理解しがたいものである。脈絡なく挿入される、「針のない置時計」は何を暗示しているのか、そして麗子にとって、「去年の夏の海」とはどのような意味を持っているのか。

 そんな謎に対し、麗子は4番で深い眠りの中に沈んでゆくことによって、あらゆる解答を拒否する。謎が解決されることなく、むしろますます深まったまま、「麗子像」は終わる。「麗子像」は、森田童子の54曲の歌の中でも最も謎めいたもののひとつである。

 *

 ところで、森田童子の歌の中で独特の意味を持つ「麗子像」の中で、「馬」が重要な意味を持って登場している事実に、果たしてどれだけの人が気づいているだろうか。

 「麗子像」における麗子は、すべてにわたって現実感が薄い。薄すぎる。それを象徴するのが、4番に登場する「四頭びきの馬車」である。「麗子像」の発表当時ですら、日本の現実世界でそんなものに逢えるのは、遊園地かアトラクションくらいだったはずである。つまり、麗子が四頭びきの馬車の中で深い眠りにつく世界は、現実のものではあり得ない。

 だが、4番における麗子の17歳の冬の終わりを、18歳の誕生日や春の訪れではなく、麗子の死と理解すれば、それまでの麗子の行動・心情がすべて異なる意味を帯びてくる。死を迎えた(と解釈する)彼女の世界を病院という外部から切り離された世界に置けば、奇行に見えた麗子の行動は、死という逃れえぬ運命に直面した彼女の悲しいせめてもの抵抗と、その抵抗の無力さへのやるせない絶望と解釈することができる。そんな彼女の死が具体化するのが後半部と考えることによって、イメージがつながってくる。それはすなわち、森田童子が「ぼく」の世界を通して表現し続けたものである。

 つまり―。

 馬車は、「麗子像」における麗子の世界の架空性の象徴としてとらえることができる。そして、麗子の世界の架空性は、最後の「17歳の冬の終り」の解釈を麗子の死と結びつけることによって、麗子を単なる謎めいた夢見る少女から、自らの運命に絶望しながらも抵抗する薄幸の美少女へと昇華させることができる。つまり、「麗子像」は、馬を効果的に用いることによって、森田童子の世界をより文学的な境地へと高めているのである。馬が果たした役割の大きさは、かくも計り知れない。

 そこに馬がいたから。馬は、常に人間の傍らに在る―。

http://cms.blog.livedoor.com/cms/article/add?blog_id=429357

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