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2006年11月12日 (日)

小説  新昆類  (39) 【第1回日経小説大賞第1次予選落選】

  8

 その年の十二月中旬、日曜日だった。渡辺寛之は朝から別荘の書斎でパソコンのキーボ
ードを打ちながら、「ウィルス・イデオロギー」の続編である「ヒューマノイド経済原論
」を執筆していた。それが完成すればインターネットに流し、自民党・民主党・公明党に
よる連立政権を撹乱させるはずだった。連立政権を裏で支えていたのは、今や日本のマフ
ィア暗黒王となった創価学会のフリーメーソン池田大作だった。池田大作はフリーメーソ
ン中国政府とも通低していた。地球を支配しているイルミナティは日本をアメリカの属国
のまま中国の属国にまで転位させようとしていた。

 真知子は朝、泥荒を矢板駅までワゴン車で乗せていった。帰りも車で迎えに行くからと
真知子は云ったが、いや別荘まで歩いて帰るから大丈夫と泥荒は真知子の申し出を断った。
泥荒の今日の予定は矢板駅からおのれが小学三年まで住んでいた増録をめざし歩いて行き、
増録の現在の外形を体感で探るのことだった。すでにディアラ神社がある増録の山は、矢
板の扇町にある小堀建設産業から真知子が買い取っていた。その山はかつて泥荒の祖父で
ある寛の山であったが、寛が脳卒中で死んで、遺産を相続した寛の長男であるマサシが矢
板の斉藤住宅産業に売ってしまった。斉藤住宅産業は小堀建設産業に転売した。

「神が住む山を売る者は地獄に落ちる」

 そのような昔からの言い伝えが豊田村にあった。
 
 山をまるごと売ったマサシは、やがてマサシの長男の代になって田畑も借金で取られて
しまった。ノブは寛の次男であったが、マサシに寛の山と田畑の遺産が移譲されたとき、
ノブには一銭も分けてもらえなかった。寛が死んだあと、ノブの母トキがやってきてノブ
はトキの要請どおりに黙ってハンコを遺産相続放棄の書類についた。トキはそれから数年
後に亡くなった。

 八十四歳になったマサシは昨年、突然狂乱し、寛が生前使用していた猟銃を押入れの奥
から取り出し、家族を皆殺しにしてしまった。マサシは家族全員を銃殺した後、豊田の家
から増録に続く山に入っていった。そして昔、ノブとテルが開墾した日向山の窪地にやっ
てきた。そこはすでに小堀建設産業の資材置き場となっていた。重機が置いてあった。マ
サシは重機めがけて猟銃を発射した。弾丸は重機の鋼鉄に跳ね返り、マサシの脳天を貫い
た。その事件は全国のニュースとなった。豊田村は謎の家族皆殺し事件の報道現場となっ
た。東京からあふれるほどにテレビ報道クルーが押し寄せてきて、豊田という固有名詞は
毎日テレビで報道された。そしてテレビ報道クルーは一週間で去っていった。それ以降、
豊田はテレビに出ることはなく、テレビの報道と視聴者の関心は名古屋で起きた次の家庭
内殺人事件へと乗り換えていった。

 小堀建設産業は増録の山を、成田村の道路から入れる場所に宅地開発したが二軒しか土
地が売れなかった。増録村沿いには二軒の別荘を建てて売ろうとしたが、そこも売れなか
った。どうするか困っているときに真知子が会社に現れた。山全体を買いたいというので
最初は無理だとていねいに断ったが、真知子が示した買取価格に魅せられ、売ることを承
諾した。なによりも不況で仕事が縮小していたご時世に、運転資金としての現金が欲しか
った。昨年は六本木ヒルズの最上階にかまえる巨大外資のゴールドマンサックスから山全
体をゴルフ場として開発したいという企画が持ち込まれ歓喜していたたのだが、マサシの
家族皆殺し事件によって場所のイメージが落ち、ゴールドマンサックスからは企画が中止
になったとファックスが入り、小堀建設産業は落胆していた。それが今年になって真知子
の話がやってきた。地方は不況で荒廃し、何よりも銭という現金を求めていた。

 小堀建設産業は足利銀行矢板支店が角にある旧国道四号線の交差点からJR東北本線を
渡る陸橋の手前にあった。そこは昔、増録から引っ越してきた泥荒の家族が住んでいた長
屋があった。鉄道を越えた西側につつじで有名な長峰公園があった。貸し長屋の所有者は
旧矢板高校近くに住んでいた地主だった。昭和五十二(一九七七)年、大家さんは貸し長
屋の土地と建物を小堀建設産業に売った。そのとき貸し長屋には四所帯が住んでいた。泥
荒の家族は一番端の西側に住んでいた。長男のトモユキ、次男のヨシヒコ、妹のジュンコ
は矢板を出て東京・神奈川で働いていた。テルもNTTの電話交換機を作っている大興電
器の那須工場で臨時工として働いていたが、そこを突然、解雇されてしまった。

 テルは矢板にいてもしょうがない南に行けば運が開けると横浜市戸塚の笠間町にあった
ちいさな平屋の貸家に住んでいたトモユキとヨシヒコを頼り、そこから住み込みの家政婦
の仕事を見つけた。トモユキは笠間町から新橋にある印刷所に通勤していた。ヨシヒコは
兜町の証券会社に通勤していた。ジュンコは東京大田区蒲田にある病院に住み込みで働い
ていた。

 矢板の貸し長屋に残っていたのは泥荒のみだった。泥荒は矢板小学校前にある塗装店で
働いていた。ノブは箒川野崎橋手前にある佐藤病院の精神病棟に入院していた。貸し長屋
の解体が決定され、小堀建設産業から退去するように貸し長屋に入居しているそれぞれの
家族は通知された。泥荒は居住権があると最後まで抵抗した。建設重機は泥荒が住んでい
た部屋だけ残し無残に屋根から壊した。一ヵ月後、最後まで居座った泥荒は、とうとう長
屋から強制的に追い出され、タンスや家財道具などはすべて重機によって破壊され燃やさ
れてしまった。記憶ある物はすべて消却されてしまった。解体と廃棄の現場には、何故か
矢板警察署からも警官が十人も出動してきた。警官は小堀建設産業が無事、解体工事がで
きるようにと阻止線を張った。やめろやめろと小堀建設産業の人間を争いのとき殴ったの
で泥荒は矢板警察署の留置所に違法占拠と傷害罪容疑でぶちこまれてしまった。社会問題
化を恐れた小堀建設産業は泥荒への告訴を取り下げた。

 泥荒が処分保留で留置所から出てきたとき、かつてあった長屋の記録は完全に消却され、
更地にされ黒いアスファルトが舗装されていた。ちくしょう、今にみていろと泥荒の体に
憎しみの赤い怨念の水が沸騰した。警察沙汰を起こし、下野新聞と栃木新聞に実名で逮捕
された報道が載ってしまったので、塗装店からも解雇されてしまった。

 そして泥荒は矢板を去っていった。横浜戸塚の笠間町に住んでいた兄のところにころが
りこむしかなかった。テルはノブを矢板の佐藤病院から横浜港南区にある日野病院に移す
手続きをした。テルに命じられた泥荒は再び矢板に戻り、佐藤病院からノブを退院させ、
横浜に連れてきた。そしてノブの牢獄は矢板から横浜市港南区の日野病院の精神病棟とな
った。解体され更地となった場所には、三階建ての鉄筋コンクリートによる構造物が建っ
た。新装移転された小堀建設産業の本社だった。

 兄たちのところに居候しながら、泥荒は仕事を探した。横浜市戸塚職業安定所での職探
しの帰り、戸塚駅東口の商店街の路地にあるパチンコ屋でパンチコをしていたら偶然、関
塚茂に出会った。関塚茂は泥荒の事情を聞き、ペンキが塗れるんだからこっちでも塗装の
仕事がいいと戸塚にある前田塗装店に紹介してくれた。

 泥荒を矢板駅で降ろした真知子は、山縣農場の隣にある山林の別荘に戻ってきた。車か
ら降りて、別荘の裏に作った小屋に行くと、新昆類は冬眠中だった。しかし夜、動き出す
新昆類もいるので野菜屑のエサは用意してある。小屋は新昆類が外と中を出入り自由にで
きるようになっている。渡辺寛之のプログラムは新昆類の野生化にグレードアップしてい
た。別荘の部屋から新昆類を山林に放ったのは今年の九月だった。そして新昆類の餌場と
して別荘の裏に小屋を建てたのである。建てたのは泥荒だった。山林に飛んでいった新昆
類は小屋の中で電磁波を発射すると、それに反応して小屋に集まってきた。

 小屋の様子を確認してから真知子は別荘に入り、紅茶を二階の書斎で仕事をしている寛
之のところまで運んでいった。昼の食事を準備するにはまだ時間がある。下に降りてきた
真知子は台所のテーブルに下野新聞を置いて、自分の紅茶を飲んだ。キッチンが真知子の
書斎だった。東窓から十二月の陽光が部屋にそそいでいる。林が風に揺らいでいる。真知
子は静かな別荘の生活に満足していた。父の有留源一郎は広島に帰っている。親戚のめぐ
み夫妻は鵠沼海岸で元気に仕事をしていることだろう。正月には真知子の息子で、有留一
族と鬼怒一族の次期棟梁である史彦も源一郎と一緒にここに帰ってくる。めぐみとその夫
である関塚茂、その娘たち真由美も、沖縄で夏を過ごした亜紀も帰ってくる。真知子は来
週になったら正月用の買出しに行こうと思った。
 
 真知子の運転で車に乗せてきてもらった泥荒は、矢板駅西口で車から降り、鉄橋を渡り
駅の東口に出た。末広町は再開発された街となっていた。昔、ここは日本通運の倉庫があっ
た巨大な敷地だった。矢板の農業や工業の産物はここから鉄道の貨物車によって運び出さ
れていた。しかし物流は鉄道から舗装された道路を走るトラックへと転換されていった。
その昔の面影は全部消却されていた。ただ大きな道路と区画整理された、どこにもあるよ
うな東京郊外の画一化された駅前と街になっていた。土建造成の実験場こそ故郷の壊れた
風景だった。家も土地もない借家住まいの人々は区画整理で追い出されていった。区画整
理に反対する人間は、街の発展を阻害する人間と認知されこの街から追放されていった。
批判とは近代の所産であるが、故郷とは批判を許さない全体主義に彩られた経済のみに唯
一の価値観があった。矢板駅東口、昔の末広町の記憶は壊滅していた。

 泥荒は庶民の生活歴史ある街の営みと空間を区画整理で全面的に東京郊外の画一化され
た風景へと変貌させる造成思想に恐怖した。藤原不比等の造成による律令制度が全面展開
されている冷ややかで非人間的な空気が沈殿している。アメリカに突きつけられた公共事
業による内需拡大、六百四十兆円、九十年代初期から中期に展開された大規模公共事業の
ひとつの風景がここにあった。国と自治体に積みあがったものは千兆円の借金のみである。

 泥荒は駅の東口から造成変貌した新しい街を歩いてみた。泥荒が毎朝毎夕、中学生の頃、
読売新聞を配達をしていたときの昔の末広町は何処を探しても皆無だった。

 泥荒は踏み切りを渡り、矢板駅西口方向にある扇町の商店街を歩いてみようと思った。
踏み切りで初めて向こうから歩いてくる人間に出会った。十代の女の子だった。歩いてい
るのが十代の人間のみというのは、商店街の消費者はわずかな中学生か高校生のみではな
いか? と泥荒は思った。大人は家でテレビを見ているだけなのだろう。扇町に出るとこ
ちらの地域は区画整理という大改造がされなかったので昔の面影がそのまま残されている。
しかしいたるところで店は廃業し、看板は壊れたままで放置され店の廃屋がそのままにな
って虚無の匂いがする商店街になっている。ここも壊れた風景だった。大人はいつのまに
か道を歩くことがない慣習が形成され、商店街は廃墟となりゴーストタウンになる。区画
整理され全面的に変貌した末広町と昔のままの扇町は光景落差に歪んでいた。光景の落差
に通低していたのは黒い空洞だった。街は洞窟の墓、祠だった。理念が喪失し空洞のまま
横たわっているのは、故郷が批判する者を壊滅し街から追い出したからではないか? 泥
荒はそう思った。

 矢板駅から百メートル北方向に矢板の主要商店街と末広町を結ぶ踏切があった。踏切を
越えると道路は二つに分かれ、長峰の山を登り、沢から東豊田をえて佐久山に至る道と、
中村を通り成田に出て、増録の山を迂回し矢板市喜連川町の境にある河戸を通り喜連川に
至る道路があった。増録へと至る矢板喜連川線の道こそに末広町の商店街があり町の幹線
道路だった。その道は旧矢板高校に通学する道であり、朝と夕べは高校生たちでにぎわっ
ていた。

 踏み切りの近くに理髪店があった。泥荒がある日、読売新聞夕刊をその理髪店に配達す
ると、そこで働いている若い女の人が、いつもごくろうさまと紅いリンゴひとつをプレゼ
ントしてくれた。泥荒はありがとうございますと云って、その女の人がくれたリンゴを夕
刊配達が終わって、妹ジュンコと食べたことがある。おいしいリンゴだったがそれよりも
人の温もりある情が中学生の泥荒はただ嬉しかった。

 その頃、人間と街と道は人が歩き活気に満ちていた。いつも夕刊配達すると赤いセータ
ーを着た幼い女の子が出迎えてくれる家があった。今はなき秋木工場の前の家だった。
朝刊配達のとき、街はまだ眠っているが、夕刊配達のときは、人と出会う。夕暮れを迎え
る街は活気に満ちていた。

 夕刊配達のある三月、末広町のバス亭に増録村のマサちゃんとマサちゃんのお母さんが
立っていた。増録村に入る停留場の宮田を通る、「喜連川行き」の東野バスを待っていた。
マサちゃんは中学生服を着ていた。マサちゃんのお母さんは着物を着ていた。卒業式の日
だった。マサちゃんは中学を卒業し、遠いところへ就職していくのだろう。泥荒はなつか
しさに胸を躍らせ、二人に挨拶をした。挨拶してくれたマサちゃんとマサちゃんのお母さ
ん、あの暖かく明るさに満ちた笑顔を泥荒は生涯忘れいだろう。

 増録村にいたころ、収穫祭はマサちゃんの田んぼでやった。ドント焼き。稲ワラを積み
上げ火をつける。パチパチと燃えるワラに串刺しのだんごを刺し、焼けただんごを子供た
ちに食べさせてくれた。農村の行事はマサちゃんの家が中心だった。ワラでつくった棒で
庭を叩く「ボウジボッタレ」もマサちゃんの家から教わった。

 テルはある日の夕暮れ、大声を出して、寛とケンカをした。戦前、小作人をいじめてき
た寛の悪癖は、テルへと向かった。テルが矢板の町でのニコヨン日雇い労働から帰ってく
ると、すぐ寛に呼び出され、隠居屋敷の囲炉裏で、寛にいびられた。風呂に入ることも許
されず、泥荒の一家は山道を歩いて西豊田の廣次の家に風呂をよばれに行った。とうとう
テルは隠居屋敷の裏に風呂場をつくった。しかし、水をやらぬと寛が断言したので、テル
の怒りが爆発した。テルが文句を言うと寛が怒り、テルを殴ろうと腕を振り下ろした。そ
の腕をテルはつかみ、ふたりの腕と腕は力の押し合いとなった。熱い夏だった。テルは紅
い腰巻しか身につけていなかった。長男のトモユキが縁側から駆け下り、「母ちゃん、や
めなよ」とテルの紅い腰巻に手を触れた。トモユキはテルが寛に鉄砲で射殺されるかもし
れないと危険を予測したのだった。テルは子供たちへの危険を予知し、すいませんでした
と、寛の前で土下座をした。寛は後味が悪くなり、引き上げていった。テルと寛のケンカ
の声は増録村に響き渡った。次男のヨシヒコと三男の泥荒はただじっと見ていた。そのと
きテルを助けることができなかった泥荒は、自分が無力で冷たい人間であることを重い悲
しみのなかで感じていた。敗北してもいいから強権の理不尽には決起することを、体をは
って寛と闘ったテルの力強い腕、後姿と紅い腰巻から教えられた。

 寛はいつも自分が大室寅之祐王朝の近衛兵であったことを自慢していた。山県有朋に洗
脳された人間こそ寛だった。山に入り猟銃で動物を射殺するのが寛の趣味だった。弱者を
いじめ強権に奉仕し、大室寅之祐王朝への絶対服従が大日本帝国軍の掟だった。

 翌日、マサちゃん家に遊びに行くと、マサちゃんの父である作蔵さんが、昨日は大変だ
ったなと、優しくいたわってくれた。作蔵夫婦は優しかった。泥荒がまだ小学校に入学で
きない幼き日、みんなが小学校へいったあと、いつも遊んでくれたのは作蔵さんだった。
作蔵さんの庭が増録村の子供たちの遊び場だった。

 小学三年の冬、矢板の町に引っ越してから、泥荒は山の草や木の名前を忘れていくこと
に危機感をもった。空白の人間になってしまう。山で教えられた大切な言葉を町の生活で
忘れていく、おらは記憶喪失になっていく。泥荒は増録の山の夢ばかり見ていた。

 大人になって矢板を去ってから、泥荒はよく末広町を新聞配達している夢を見た。配達
する家を忘れる夢は、俳優が舞台でセリフを忘れてしまう脅迫観念の夢と同じだった。

 末広町は全面的に改造されていた。よそよそしいスタイルとポーズの偽装され捏造さ
れた構造が表層に漂っている。その深層にあるのは空洞である。区画整理というデスワー
クの設計思想はまるで全体社会主義国家のなせる業でもあった。二十一世紀の故郷は、歴
史が消却された非人間のヒューマノドの街へと変貌している。車が道路を疾走するばかり
で死んだ街になっている。九十年代に区画整理して大変貌した末広町、そして人は誰も道
を歩いていない。歩いているのが泥荒のみだった。もはやここで街を歩く大人は異邦人と
認識されてしまうのかもしれなかった。人が街の道を歩くのは自然であり、そこに店があ
り消費経済が生成する。歩行は経済の原点だった。末広町は車の町となり、そして道には
誰もいなくなった……人間の顔が見えない故郷に変貌していた。都市以上のよそよそしい
冷たさがあった。温もりが消え淋しい孤独な光景は歴史が消却された舗装の装いにあった。


 泥荒は扇町の商店街から再び踏み切りを渡り、矢板駅東口から駅前添えにある南北に造
られた新しい大きな道路を南へと歩き始めた。歩行者のためのゾーンはあったが車両が往
来するための道路である。大人は誰も歩いていなかった。歩くものは車を私有していない
貧乏人の象徴としてここでは認知されるのだろう。道路を造る土建屋経済の成れの果てだ
と泥荒は区画整理され造成された末広町を歩きながら思った。左手西側に日本たばこ産業
株式会社の倉庫があった。矢板はたばこの葉の生産地でもあった。昔、増録にあった寛の
隠居屋敷の奥に住んでいたとき、寛はたばこの葉を乾かすため、泥荒の家族が住む部屋ま
でタバコの葉をつるした。天井はたばこの葉だらけとなり、その下で飯を食った。寛はた
ばこの他に椎茸も増録の山林で生産していた。そして趣味は鉄砲撃ちだった。山に入り猟
銃による獣狩りだった。日本たばこ産業の倉庫を過ぎると交差点があった。そこを左折す
ると泥荒が卒業した旧矢板高校がある。今の名称は矢板東高校である。その高校へ行く道
は造成された道路から行けるようになっている。全ての環境と風景が捏造されていた。日
本たばこ産業の近くにあり、ベニヤなどを加工していた秋田木材の大きな工場は閉鎖され
て消却されていた。その巨大な敷地には宅地造成され東京郊外の邸宅の街並へと画一化さ
れている。

 泥荒は三十年ぶりに旧矢板高校の校庭を歩いてみた。まだ昔の面影が残っていたので安
堵した。校庭には生徒が誰もいなかったが体育館からはバレーボールを練習する女子生徒
の声が聞こえてきた。泥荒は昔、旧矢板高校に教室の黒板塗りの仕事で来たことがある。
それは緑色の黒板用塗料を下地を紙やすりで滑らかにした後、塗る仕事だった。昭和五十
一(一九七六)年の秋だった。生徒の授業がない土曜の午後から日曜にかけての仕事だっ
た。泥荒は旧矢板高校の校庭を横切り門から外の道路に出た。その道路は三十六年前に誘
致されたシャープ早川電器の工場裏に続く道だった。矢板駅の北側にあった大興電器も工
場閉鎖されその巨大な工場敷地の跡には、中心を貫く道路が造成され光景は変貌した。故
郷では巨大企業の工場しか生き残れなかったのだろうか? 時代の変遷に故郷の思想も生
き残ってきたのであろうか? 故郷の思想とは何なのだろうか? 泥荒は抽象的なことを、
かんがえながら、シャープ早川電器工場裏に至る道路を横断し、東町の住宅街を通り抜け、
新国道四号線を横断した。この道は片岡からのバイパスとしてシャープを工場誘致したと
きに造成された道路だった。それが国道四号線となったのである。矢板の商店街を走って
いた幹線道路は旧国道四号線となった。

 泥荒は誰も歩いていない舗装道路を歩き中村へと入った。道路はやがて東北新幹線の下
をくぐっていく。田園から道は森林に入る。右手南側にゴルフ場アロエースの入り口門が
あった。ゴルフ場へと造成された山は多かった。昔、泥荒は二十代前半の頃、ひとりこの
山にキノコとりに入ったことがある。塗装の仕事が休みの日曜日だった。山はしかしゴル
フ場に造成される工事現場となっていた。それは畑の開墾ではなかった。山肌は重機の鋼
鉄の爪によってかきむしられ、赤土が噴出していた。それは山の赤い血だと泥荒は感じた。
木々がなぎ倒されている。無残な光景だった。無残に山の古よりの自然を壊滅して造成さ
れたのがゴルフ場アロエースだった。泥荒にとってゴルフ場の広大な緑の芝生は、ウソの
緑だった。捏造と欺瞞の緑色を泥荒は憎んだ。そこを通り過ぎると成田だった。増録が近
づいてきた。

 矢板駅から増録への道を歩いてきた泥荒に、昔あった宮田という東野バス停留場が見え
てきた。宮田は三叉路の角に昔あった。矢板から来た道は宮田で右折し矢板と喜連川の境
にある河戸に入る。宮田から左折すれば成田村沿いに行く道路だった。昔、増録村に入る
のは宮田から獣道の山を越え村に入った。山を降りたところに泥荒の祖父である寛の隠居
屋敷があった。増録村の人間は寛の隠居屋敷の庭を横切り、ディアラ神社がある山を越え、
宮田に出て、矢板行のバスに乗った。矢板から帰るときは矢板で喜連川行きのバスに乗り、
宮田で降りて山を越え寛の家の庭を横切り、家に帰っていった。

 寛はマサシに豊田の家と田畑だけ家督を譲ると、増録村に隠居屋敷を建て、よく遊びに
行っていた塩原温泉から、或る芸者をを妾として迎え入れ、その女と一緒に増録で暮らし
た。田畑は長男のマサシに譲ったが山だけは譲らなかった。妻のトキは豊田の家に置かれ
たままだった。豊田の家は百年の年季がある農家だった。調布市の都営住宅から、ノブと
テルは寛の隠居屋敷の奥に居候して増録で暮らし始めた。昭和三十一(一九五六)年だっ
た。寛の弟である廣次の後家に入ったミツ子に預けられていた泥荒も、テルが呼び戻し、
ミツ子に連れられ増録にやってきた。泥荒は初めて増録にミツ子に連れられ来た時のこと
を今でも鮮明に覚えている。

 廣次の家がある豊田から山に入り急な山道を登ると、高い樹木に覆われたなだらかな道
が東へと続いていた。山道から開けたちいさな盆地に出ると、田畑が北から南へと細長く
息をしていた。その西はまた山だった。ちいさな盆地は山に囲まれていた。豊田から開墾
で増録に居をかまえた作蔵さんの家の脇にある農道を西に進むと、山の麓に寛の隠居屋敷
がった。隠居屋敷は瓦屋根が寺のようにひさしが反り返っていた。豊田の地主であった寛
の見栄が主張されていた。隠居屋敷は東から西に作られ、庭を横切ると山に向かっていく。
増録の人間は寛の庭を横切って山を登り、矢板~喜連川の街道に出るのだった。山を降り
た三叉路の角に東野バス宮田停留場があった。そこからはもう成田村の豊かで広い田園地
帯だった。泥荒はミツ子に連れられ寛の隠居屋敷の庭を横切り奥に来た時、テルが喜んで
迎えた。あがれあがれと泥荒は家に上がらせられた。泥荒はすぐさま貧乏という崩壊の匂
いを部屋の暗さから嗅ぎ取った。廣次の家にある秩序がここにはなかった。泥荒の兄であ
る長男のトモユキと次男のヨシヒコがいた。ヨシヒコはノブの実家である豊田のマサシの
家に預けられテルに呼び戻され増録にきたばかりだった。トモユキはテルとともに調布か
ら増録にやってきた。テルがヨシヒコにおもちゃを与えてやれと命じた。ヨシヒコはおも
ちゃを探してきて弟がきたと嬉しそうに泥荒の手におもちゃを差し出す。泥荒をそれを握
ったが、ミツ子の行方が心配だった。いつのまにかミツ子は姿を消していた。泥荒は靴と
云った。泥荒のそばにいたヨシヒコが、おめぇの靴ならちゃんとあるから心配すんなと云
った。泥荒はなんとしても外に出てミツ子の後を追い、自分がいままで生活していた廣次
の家に帰りたかった。ここに置き去りにされることが意味不明だった。四歳の泥荒は新し
い家族の様子と周りを見ながら、ここから脱出する方法のみを考えていた。外でションベ
ン、と泥荒ヨシヒコに云った。泥荒は初めて生き抜くために人をごまかすことに成功した。
ヨシヒコは泥荒を縁側に連れていき、ほらあすこにあると泥荒の靴を指し示した。泥荒は
縁側を降り自分の靴を履いて外に飛び出した。そして泣きながらミツ子の後を追っていっ
た。泥荒の大きな泣き声は増録の盆地に響いた。それを聞いたミツ子は農道のところに立
っていた。ミツ子はしかたがなく泥荒を連れて廣次の家に戻った。廣次の家に戻った泥荒
はそこはもう自分が帰るべき場所ではないことを雰囲気で理解した。数日後、テルが迎え
に来た時、泥荒はおとなしく廣次の家から去った。増録という新しい環境に適応すること
が唯一の生存方法であると、泥荒に動物的本能の呼び声が内部から聞こえていた。

 増録で生活するようになって泥荒の遊び場は平地の田園から、冒険に満ちた山となった。
そして泥荒が五歳になったとき、妹のジュンコが産まれた。テルは矢板の町に日雇いの土
方の仕事に行っていたので、ジュンコのお守りは長男のトモユキがした。トモユキはジュ
ンコを背におぶり、次男のヨシヒコ、三男の泥荒はよく作蔵さんの家に遊びにいった。作
蔵さんの家にはミノちゃんとマサちゃんがいた。ミノちゃんはガキ大将として統率し、増
録の盆地を覆う山に毎日冒険をしに行った。ディアラ神社は増録の子供たちが遊ぶ中心地
となっていた。泥荒が小学三年になった二月、家族は寛の隠居屋敷の奥から矢板の町に引
っ越すことになった。貧しい家財を積んだリヤカーを引き家族は砂利道の街道を矢板へと
歩いていった。
 

【第1回日本経済新聞小説大賞 第1次予選落選】

原島 嵩
誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実
加治将一
石の扉
区画整理再開発対策全国連絡会議
区画整理・再開発の破綻―底なしの実態を検証する 破綻に直面する53事例一覧表付
穂坂 邦夫
市町村崩壊 破壊と再生のシナリオ
皆村 武一
村落共同体崩壊の構造―トカラの島じまと臥蛇島無人島への歴史
足利銀行
足利銀行史 (1985年)
ジョナサン ワイナー, Jonathan Weiner, 樋口 広芳, 黒沢 令子
フィンチの嘴―ガラパゴスで起きている種の変貌
伊東 光晴
伊東光晴経済学を問う (2)
篠原 修
土木デザイン論―新たな風景の創出をめざして
文化庁文化財部記念物課
日本の文化的景観―農林水産業に関連する文化的景観の保護に関する調査研究報告書
サイモン・シャーマ, 高山宏, 栂 正行
風景と記憶
松原 隆一郎
失われた景観―戦後日本が築いたもの
桑子 敏雄
環境の哲学―日本の思想を現代に活かす
荒 このみ
西への衝動―アメリカ風景文化論
アラン コルバン, Alain Corbin, 小倉 孝誠
風景と人間
岡田 昌彰, 中村 良夫, 篠原 修
テクノスケープ―同化と異化の景観論
岡田 敏夫
奥日光・足尾・那須―上州武尊山
サラ・ブラファー・ハーディー, 塩原 通緒
マザー・ネイチャー (下)
栃木県勤労者山岳連盟宇都宮ハイキングクラブ
栃木の山120
牧野 治三
弓の文学誌―那須与一は正鵠を射たか
労働省婦人少年局
新聞配達に従事する年少者の労働実態調査 (1962年)
労働省婦人少年局
年少労働調査資料〈第23集〉新聞配達をしている年少者 (1953年)
中根 おさみ, セノオ 良兵
走れ ちんねん 新聞配達犬物語

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